第1975回例会記録 ゲスト卓話 「広島に生きる伝統漆芸 高盛絵」 

我が国の伝統工芸を代表する「漆芸」。その成り立ちは、ウルシの木の表皮に傷をつけ、滲み出てくる樹液を採取し、塗料または接着材として使用しました。日本では縄文時代草創期である1万2千年前から使用しており、土器や木製の器に漆が塗られ文様が描かれています。また朱漆が塗られた櫛や髪飾りなどの装飾品も多く出土しています。

文明の発達と共に様々な技法が生まれ、家具や調度品が作られるようになりました。平安時代には金銀粉を散りばめた「蒔絵」や貝を用いる「螺鈿」などの技法が完成し、その技法で作られた調度品などは国宝や正倉院宝物として今日に保存されています。桃山時代に来日したヨーロッパ人たちは金銀に輝く蒔絵に驚嘆し、大量に本国へ持ち帰りました。以来蒔絵は鎖国の江戸時代にも輸出され続けました。遠く東洋からもたらされる日本の漆器は富の象徴とされ、フランス王妃マリー・アントワネットらは競って蒔絵の調度品を求め宮殿を飾りました。日本で誕生し西洋人を魅了した漆器が英語で「japan」と呼ばれる所以です。また、螺鈿の技法で作られた南蛮漆器と呼ばれる宗教用具はスペインやポルトガルの商人が日本の蒔絵師に制作を依頼し、それらはアメリカにも渡り日本の漆器は世界へと拡がりました。

我が国では公家や大名の調度品の制作のために、多くの塗師や蒔絵師が誕生しました。初代金城一国斎もそのひとりです。初代金城一国斎 本名澤木正平は伊勢松坂出身で名古屋に移り、尾張藩御用納戸塗師として蒔絵を制作しており、1811年に金城一国斎を名乗りました。二代金城一国斎は初代の次男で蒔絵だけではなく様々な漆芸技法を学び、「高盛絵」を考案しました。1843年に眼病治療のために広島を訪れ、10年間現在の広島市中区江波に逗留しました。当時広島藩の藩窯であった「江波焼」の後継者だった木下兼太郎は二代金城一国斎の影響を受け陶芸ではなく漆芸を志し、その名と技術を受け継ぎ三代金城一国斎を襲名しました。三代一国斎が完成させた高盛絵は、蒔絵の一種で文様を高く盛り上げる「高蒔絵」と黒漆や朱漆を何層も塗り重ねをした後、彫刻する堆黒(ついこく)や堆朱(ついしゅ)から発展した技法です。明治時代から続くこの技法は、弟子を取らず子供だけに相伝する一子相伝で今日まで来ました。国産の上質な漆と砥の粉を練り合わせ水を加えて粘度を調整し、専用の筆で文様を高く盛り上げていきます。モチーフは昆虫や植物が多く、アシナガバチやカマキリがいきいきと描かれ、牡丹の花などが柔らかく立体的に表現されています。四代一国斎は大正時代に活躍し、茶の湯・俳句などを好み、華やかな作品が特徴です。五代一国斎は若くして蒔絵を習得し、六代と共に細密な高盛絵を制作し、戦後の困難な時代を細々と守り伝えました。わたしは香川県漆芸研究所において漆芸の基礎を学び、帰広後五代一国斎に高盛絵を教わりました。平成三年、五代・六代一国斎の死去に伴い七代一国斎を襲名し昨年襲名30年を迎えたところです。この間、日本伝統工芸展を中心に作家活動を続け、高盛絵だけでなく切金や螺鈿の技法で作品を発表して来ました。主な作品のテーマは「光・風・水」です。命の源である水と光を浴び、いきいきと伸びゆく草花。例えば柳が枝垂れた水辺に一陣の風が吹くと、柳の葉はキラキラと輝きながら靡きます。その一瞬のときめきを作品に込めていきます。今後、広島に育まれてきた高盛絵を次世代へと繋げるためにも、この技法の様式美の探求と新たな作品の創造に精進して参る所存です。

どうぞ、皆様の応援とお力添えをお願いし、寄稿とさせていただきます。

漆芸家   七代金城一国斎

例会記録

前の記事

第1975回例会記録
例会記録

次の記事

第1976回例会記録