第1994回例会 ゲスト卓話「私が見たカンボジア~地雷村の復興の道のり」
「私が見たカンボジア ~地雷村の復興の道のり~」
久保田夏菜
地図や食文化から見る、カンボジアの基本情報を紹介。
カンボジアに興味を持つようになったのは、愛媛時代に出会った著書“地雷処理という仕事”に出会ったから。そこに書かれていた、カンボジアのために人生を捧げた著者・高山良二さんの生き方に感銘を受け、「活動の原動力は何か?」と高山さんに尋ねる。すると、「気になるのなら、村に来たら?」と誘われ、カンボジアを訪問することになる。
12年前、高山さんの活動の原動力を知るため、カンボジアのバッタンバン州にあるタサエン村を訪問。そこは、カンボジアでも一番多くの地雷が残るといわれる、タイ国境付近の村。そこで、出会ったのは、地雷に振り回され、怯えながら生きる村人ではなく、逞しく生きる村人の姿。良くも悪くも、地雷が生活の一部になっていると知る。
カンボジアには、内戦時代に埋められた地雷が、今もなお 400~600万個残るといわれる。そんな中、タサエン村では、世界初の村人参加型の地雷処理活動が行われている。手作業で行われる地雷処理方法を紹介。
手作業ではリスクが高いように感じるが、村では「98%の安全では意味がない。100%安全と言えてはじめて、地雷撤去が完了したといえる」という考えのもと、撤去活動が行われているため、最後は人の手や目が確実だという。そして、村人が参加するということに大きな意味があり、その理由は“村の自立”のためである。世界には、優秀な地雷撤去組織やチームが実在するが、予算や任期というものがあり、どんなに優秀な組織だとしても、いつかはその地から離れてしまう。しかし、村人が技術を習得すれば、技術を村の財産として、撤去活動の継続に繋ぐことができ、村の自立の支えにもなる。さらに、地雷撤去隊員として、村人を雇うことになるので、雇用創出にもつながる
そもそも、なぜカンボジアには多くの地雷が埋められているのか?カンボジアの歴史を簡潔に紹介。ベトナム戦争に巻き込まれる形で1970年に内戦が勃発、その後、ポルポトが4年間政権を握り、原始共産主義をとなえる。国民を農民に戻し、貨幣制度をなくし、知識人などを大量虐殺。その当時、カンボジア国民800万人のうち300万人が命を奪われたという。残虐な行為を繰り返したポルポトから政権を奪ったのは、ポルポト幹部が率いるベトナム軍。しかし、その後も国の統一者が現れず、複数の軍や派閥が生まれては消えてを繰り返し、絶えず、内戦が繰り広げられた。カンボジア内戦が終結したのは、1991年。その約20年の間に多くの地雷が埋められ続けた。
やがて、地道な撤去作業を経て、広大な安全な土地が確保されると、農地へと生まれ変わり、村の農業が盛んになる。村ではキャッサバ芋の栽培に力を入れ、苦節 9 年、タサエン村初の特産品、キャッサバ芋焼酎の“ソラ―クマエ”作りに成功。カンボジアの復興を支えるお酒である。その後、呼び名を“ソラクメール”に変え、今では、世界各国で販売される特産品となる。この夏には、フランスのパリで開催された「Kura Master 本格焼酎・泡盛コンクール2023」で、ソラクメールシリーズが4部門を同時に受賞。日本総代理店を務める「IMARI」のECサイトで販売中。
カンボジアで最も貧しいと言われた村から、世界に誇る特産品が誕生。お酒が消費されると村に還元され、村人のモチベーションの向上や誇りに。自立への一つの道がまた切り開かれた。
そんな村での活動を目の当たりにし、自分にできることは何かと考えた結果、まずは、カンボジアの現状を知ってもらうことが大事だと、日本での周知活動に力を入れている。学校や企業などでの講演、イベント主催などのほか、テレビやラジオで特集を組み、放送。そんな中、集まった文房具などの物品や寄付金を現地に届けたり、預かった寄付金で井戸を建設、広島の企業とカンボジアを結ぶなど、カンボジアと広島の架け橋としての活動に力をいれる。
カンボジアへの訪問が叶わなかったコロナ禍は、書き損じはがきによるカンボジア支援の呼びかけを。家で眠っている、書き損じたハガキや使わなくなった切手やテレホンカードを集め、カンボジアへの寄付金に。2022年度は、30000枚以上のハガキや約1000枚の切手などが集まり、寄付額は金額にして198万円を超えた。これは、マツダスタジアム1・9個分の土地の地雷原の地雷を撤去する費用に値する。今後も、継続して呼びかける予定。
「ハガキ送付先:クメールエール事務局(みんなのもり)〒731-4314安芸郡坂町坂西1丁目4-12」
カンボジアという国のためにできることはないが、せめて出会った人たちがこの先も笑顔で安心して生活できるように…自分にできることはないだろうか、まだまだ模索中である。