第1927回例会 ゲスト卓話「サンフレッチェ広島、その昨日今日明日」

 平和とサッカーは、広島で強く結びついています。

 被爆の2年後です。復活なった全国中等学校蹴球大会で、広島高等師範学校附属中学校が優勝するのです。校舎は倒壊、グラウンドは芋畑になっていたのを整地し直し、ボールには軍靴で継ぎを当て、しかも原爆症の不安と闘いながらでした。サッカーが生きる希望だった高校生は、人々を勇気づけ、修道、旧制一中などが続いて高校サッカーの黄金時代を築きます。これが母体となって東洋工業サッカー部は、日本リーグ開幕の年から前人未到の4連覇を成し遂げます。1968年、メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した代表18人の中には実に6人が広島県関係者、さらに監督は、自らも被爆者の長沼健さんでした。

 広島が戦前から最強だったのは、第一次世界大戦のドイツ軍捕虜が似島に収容され、彼らから本格的な独式サッカーを学んでいたからです。さらに遡ると、日本にサッカーを初めて伝えた英国海軍の伝統は江田島の海軍兵学校に息づき、明治23年、蹴球試合を近隣住民に披露した記録が見つかっています。

 サッカーは広島の人々に最も身近でした。広島平和公園を設計した丹下健三氏は、平和資料館・原爆死没者慰霊碑・原爆ドームを南北一直線に並べましたが、その延長線上に、サッカーのできる総合運動場を想定していました。サッカーの歓声こそが復興、平和を象徴すると考えたのです。被爆から79年、夢が実現します。

 新スタジアムは、ピッチが至近で臨場感にあふれ、バラエティ豊かな座席、飲食ブース、大型映像による演出が観客を盛り上げます。ホームゲームは年間20試合ほどしかないと指摘を受けますが、日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」にサンフレッチェ広島レジーナが参入し、10試合が加わります。ミュージアムも充実させ、体験型の楽しめる工夫もしていきます。個人寄付は3億円を超え、法人寄付も広島商工会議所のご尽力で、目標10億円を大きく上回る16億円に達しています。感謝しかありません。着工日、岸田総理から、広島サッカー史を詳しく語ったうえで、期待の熱いメッセージを頂きました。私どものホームページでご覧いただけます。

 クラブ経営は観客収容制限が続き呻吟していますが、広島だけが広告費を伸ばし続けています。ここにも、広島サッカーの底力、サッカー愛を感じ、有難いです。

仙田信吾

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